釣りの哲学|第一話 40キロでもまだ小さい

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磯から40kgのアラを追う釣りの哲学 第一話

見えない一尾に、なぜ時間を差し出すのか

その瞬間は、何の前触れもなく訪れた。

私は三泊の日程で、ある島へ遠征していた。

餌は、その場で釣った小魚だった。それますかを針に掛け、磯の足元で泳がせる。

一晩目も、二晩目も、本命らしいアタリはなかった。

最後となる三日目の夜、ようやくそれらしいアタリが来た。しかし、仕掛けを上げると餌だけが取られ、素針になっていた。

新しい活餌を掛け、もう一度泳がせる。

しばらくして、またアタリが来た。

だが、それも餌だけを持っていかれた。

「こらは居るぞ」

姿を見たわけではない。餌を取った魚が本当にアラだったという確証もない。

それでも、二度のアタリによって、見えなかった存在が急に現実味を帯びた。

私は再び活餌を掛け、磯際へ泳がせた。

ところが、今度は何も起こらない。

反応のないまま時間だけが過ぎていった。もうどこかへ行ってしまったのだろう。そう思い始めると、先ほどまでの期待も次第に薄れていった。

腹も減っていた。

私は竿から少し離れ、磯の上で遅い夕食を食べ始めた。

すると、背後から「カタカタッ」と音がした。

続いて、リールのドラグが鳴り始めた。

食べていた飯を横へ置き、急いで竿のところへ向かった。竿は曲がり、少し強めに設定していたドラグからラインが出ている。

「サメかな……」

それなりには引く。だが、それほど大きなサメではなさそうだった。

そう思いながらリールを巻き、掛かった魚を海面まで浮かせた。

そこで初めて、本命だと分かった。

海面に浮いたアラは、腹を上に向けていた。針掛かりを確認し、用意していたギャフを口に掛ける。

重い魚体を、少しずつ磯の上へ引きずり上げた。

ファイトは、一分か二分ほどだったと思う。

約二十年間追ってきた魚との決着は、驚くほど短かった。

磯へ上げたあと、私はしばらく、釣れたアラをぼんやりと眺めていた。

四十キロ。

「やっと獲った」

もちろん、うれしかった。

簡単に出会える魚ではない。何も起こらない夜を何度も過ごし、長い年月を重ねて、ようやく自分の手で磯へ上げた本命だった。

だが、その喜びの隅には、別の感情もあった。

「まだ小さいな……」

四十キロのアラを見て、まだ小さいと思った。

目の前の魚が小さいのではない。

私が見続けてきたものが、それほど大きかったのだ。

私が追っているのは、二十キロでも三十キロでもない。

百キロのアラである。

四十キロを獲ったことで、夢へ近づいたともいえる。しかし同時に、それでもまだ半分にも届いていないという距離を、現実の重さとして知ることになった。

夢に近づくとは、残された距離が短くなることだけではない。

自分が追っているものが、どれほど遠いのかを知ることでもある。

私は、根拠もなく百キロの魚を信じているわけではない。

過去に大物が何本も釣れた場所。潜りの漁師やダイバーによる目撃情報がある場所。海底の地形や潮の通り方を見て、「ここにはデカいアラがいる」と確信を持てる場所。

私が通うのは、そういう磯である。

それでも、魚がそこにいることと、その魚が自分の餌を食うことは別の話だ。

そこにいたとしても、仕掛けの前へ出てくるとは限らない。近くまで来ても、違和感を覚えて離れるかもしれない。

百キロともなれば、生息できる場所も個体数も限られてくる。仮に存在していても、簡単に釣れてくれる相手ではない。

だから、一年間釣れないこともある。

焦りもある。不安もある。

何度通っても結果が出なければ、時には絶望に近い感情にもなる。

私はアラ釣りを始めて約三十年になる。

それでも、最大はあの四十キロだ。

世間から見れば、十分な大物かもしれない。しかし、百キロだけを見てきた私にとっては、まだ半分にも届いていない。

では、三十年間届かなかったという事実は、諦める理由になるのだろうか。

私は、そうは思わない。

実際に百キロのアラを獲った人たちを、私は知っている。

その人たちを妬ましいとは思わない。

むしろ、「やはり百キロはいる」と思える。その事実によって、頭の中にしかなかった夢が、現実の海に存在するものへ変わる。

百キロのアラなど、一生かけても釣れないかもしれない。

努力したからといって、海が結果を返してくれるわけではない。費やした年月と釣果が釣り合う保証もない。

それでも、可能性がゼロでないなら、私は狙う。

たとえ、その可能性が限りなくゼロに近くても、ゼロに近いことと、ゼロであることは違う。

これは、「諦めなければ夢は叶う」という話ではない。

叶わない可能性を知ったうえで、それでも自分から可能性を捨てないという話だ。

あの夜、私は食べかけていた飯を食べ、朝まで寝た。

朝になって島の知り合いへ連絡し、アラを車まで運ぶのを手伝ってもらった。飛行機で来ていたため、四十キロの魚を自宅まで持ち帰るのは大変だった。

できることなら、自分で車に積み、家まで持って帰りたかった。

しかし、魚が釣れてくれた時点で目的は果たしていた。満足もしていた。それなら、島で世話になった人に譲り、喜んでもらう方がよいと思った。

魚は手元に残らなかった。

だが、あの一尾を獲った事実は残った。

三十年通っても百キロには届かない。

そして今、若い頃よりも、磯へ立てる時間が残り少なくなっていることを感じている。

健康な身体で磯に立てることは、もちろんうれしい。

しかし正直にいえば、その喜び以上に焦りの方が強い。

百キロのアラが海にいる可能性が残っていても、私の身体が動かなくなれば、私にとってその可能性はそこで終わる。

魚が食ってくる時間は選べない。

自分の身体がいつまで動くのかも、完全には選べない。

海の側には、不確かな時間がある。

人間の側には、限られた時間がある。

その二つが重なっている間だけ、私は百キロのアラを狙うことができる。

三十年追って、まだ四十キロ。

それでも、私が磯へ立ち、一本の竿を出せる間は、可能性はまだゼロではない。

本当にゼロになるのは、私の身体が動かなくなった時だ。

それまでは、自分の側から終わらせる理由はない。

次の一尾が百キロである保証はない。

おそらく、何も起こらない夜の方が多い。

それでも私は、また磯へ立つ。

見えない海の底にいるかもしれない一尾へ、残された自分の時間を差し出すために。

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