
見えない一尾に、なぜ時間を差し出すのか
その瞬間は、何の前触れもなく訪れた。
私は三泊の日程で、ある島へ遠征していた。
餌は、その場で釣った小魚だった。それますかを針に掛け、磯の足元で泳がせる。
一晩目も、二晩目も、本命らしいアタリはなかった。
最後となる三日目の夜、ようやくそれらしいアタリが来た。しかし、仕掛けを上げると餌だけが取られ、素針になっていた。
新しい活餌を掛け、もう一度泳がせる。
しばらくして、またアタリが来た。
だが、それも餌だけを持っていかれた。
「こらは居るぞ」
姿を見たわけではない。餌を取った魚が本当にアラだったという確証もない。
それでも、二度のアタリによって、見えなかった存在が急に現実味を帯びた。
私は再び活餌を掛け、磯際へ泳がせた。
ところが、今度は何も起こらない。
反応のないまま時間だけが過ぎていった。もうどこかへ行ってしまったのだろう。そう思い始めると、先ほどまでの期待も次第に薄れていった。
腹も減っていた。
私は竿から少し離れ、磯の上で遅い夕食を食べ始めた。
すると、背後から「カタカタッ」と音がした。
続いて、リールのドラグが鳴り始めた。
食べていた飯を横へ置き、急いで竿のところへ向かった。竿は曲がり、少し強めに設定していたドラグからラインが出ている。
「サメかな……」
それなりには引く。だが、それほど大きなサメではなさそうだった。
そう思いながらリールを巻き、掛かった魚を海面まで浮かせた。
そこで初めて、本命だと分かった。
海面に浮いたアラは、腹を上に向けていた。針掛かりを確認し、用意していたギャフを口に掛ける。
重い魚体を、少しずつ磯の上へ引きずり上げた。
ファイトは、一分か二分ほどだったと思う。
約二十年間追ってきた魚との決着は、驚くほど短かった。
磯へ上げたあと、私はしばらく、釣れたアラをぼんやりと眺めていた。
四十キロ。
「やっと獲った」
もちろん、うれしかった。
簡単に出会える魚ではない。何も起こらない夜を何度も過ごし、長い年月を重ねて、ようやく自分の手で磯へ上げた本命だった。
だが、その喜びの隅には、別の感情もあった。
「まだ小さいな……」
四十キロのアラを見て、まだ小さいと思った。
目の前の魚が小さいのではない。
私が見続けてきたものが、それほど大きかったのだ。
私が追っているのは、二十キロでも三十キロでもない。
百キロのアラである。
四十キロを獲ったことで、夢へ近づいたともいえる。しかし同時に、それでもまだ半分にも届いていないという距離を、現実の重さとして知ることになった。
夢に近づくとは、残された距離が短くなることだけではない。
自分が追っているものが、どれほど遠いのかを知ることでもある。
私は、根拠もなく百キロの魚を信じているわけではない。
過去に大物が何本も釣れた場所。潜りの漁師やダイバーによる目撃情報がある場所。海底の地形や潮の通り方を見て、「ここにはデカいアラがいる」と確信を持てる場所。
私が通うのは、そういう磯である。
それでも、魚がそこにいることと、その魚が自分の餌を食うことは別の話だ。
そこにいたとしても、仕掛けの前へ出てくるとは限らない。近くまで来ても、違和感を覚えて離れるかもしれない。
百キロともなれば、生息できる場所も個体数も限られてくる。仮に存在していても、簡単に釣れてくれる相手ではない。
だから、一年間釣れないこともある。
焦りもある。不安もある。
何度通っても結果が出なければ、時には絶望に近い感情にもなる。
私はアラ釣りを始めて約三十年になる。
それでも、最大はあの四十キロだ。
世間から見れば、十分な大物かもしれない。しかし、百キロだけを見てきた私にとっては、まだ半分にも届いていない。
では、三十年間届かなかったという事実は、諦める理由になるのだろうか。
私は、そうは思わない。
実際に百キロのアラを獲った人たちを、私は知っている。
その人たちを妬ましいとは思わない。
むしろ、「やはり百キロはいる」と思える。その事実によって、頭の中にしかなかった夢が、現実の海に存在するものへ変わる。
百キロのアラなど、一生かけても釣れないかもしれない。
努力したからといって、海が結果を返してくれるわけではない。費やした年月と釣果が釣り合う保証もない。
それでも、可能性がゼロでないなら、私は狙う。
たとえ、その可能性が限りなくゼロに近くても、ゼロに近いことと、ゼロであることは違う。
これは、「諦めなければ夢は叶う」という話ではない。
叶わない可能性を知ったうえで、それでも自分から可能性を捨てないという話だ。
あの夜、私は食べかけていた飯を食べ、朝まで寝た。
朝になって島の知り合いへ連絡し、アラを車まで運ぶのを手伝ってもらった。飛行機で来ていたため、四十キロの魚を自宅まで持ち帰るのは大変だった。
できることなら、自分で車に積み、家まで持って帰りたかった。
しかし、魚が釣れてくれた時点で目的は果たしていた。満足もしていた。それなら、島で世話になった人に譲り、喜んでもらう方がよいと思った。
魚は手元に残らなかった。
だが、あの一尾を獲った事実は残った。
三十年通っても百キロには届かない。
そして今、若い頃よりも、磯へ立てる時間が残り少なくなっていることを感じている。
健康な身体で磯に立てることは、もちろんうれしい。
しかし正直にいえば、その喜び以上に焦りの方が強い。
百キロのアラが海にいる可能性が残っていても、私の身体が動かなくなれば、私にとってその可能性はそこで終わる。
魚が食ってくる時間は選べない。
自分の身体がいつまで動くのかも、完全には選べない。
海の側には、不確かな時間がある。
人間の側には、限られた時間がある。
その二つが重なっている間だけ、私は百キロのアラを狙うことができる。
三十年追って、まだ四十キロ。
それでも、私が磯へ立ち、一本の竿を出せる間は、可能性はまだゼロではない。
本当にゼロになるのは、私の身体が動かなくなった時だ。
それまでは、自分の側から終わらせる理由はない。
次の一尾が百キロである保証はない。
おそらく、何も起こらない夜の方が多い。
それでも私は、また磯へ立つ。
見えない海の底にいるかもしれない一尾へ、残された自分の時間を差し出すために。